働くということ
最近、やたら働き方改革とか言われてますけど、なんかみんなやっぱり働くこと自体が主役でそれ以外は付録みたいな感じに捉えてませんか?
一日24時間✖️365日で8760時間。
一年の休日日数を115日として出勤日が250日。
一日10時間働いたとして年間2500時間です。
この計算でいくと8760時間のうち約29パーセントが労働時間になります。
30%くらいと考えるとスッキリします。
一日の平均睡眠時間を7時間としてこれに365日をかけると2555時間。
これも約30%。
年間で見ると仕事時間と睡眠時間はほぼ同じで二つ足しても60%です。
つまり一番構成比で大きい時間はそれ以外の40%、「自分の時間」なんですね。
この自分の時間をどう楽しむか。豊かに過ごすかということが大事なのではないでしょうか。もちろん、睡眠時間を含めて70%の時間を自分の時間と捉えればもっと考えが広がる人もいるかもしれません。
この70%の時間を仕事に侵食されないようにするには、とにかく疲れ切らないこと。
車の運転に例えると高速道路で東京から福岡まで1000㎞以上。僕は何度も車で往復しているのですが、疲れないコツは1時間ごとにトイレ休憩や仮眠をとることなんです。そうすれば、15時間くらいで着きますし、到着してからも活動的になれます。
これを最初無理をして東京から名古屋あたりまで一気に行こうとするとそのあとがキツイ。もう30分ごとに休まないとダメになります。つまり、一定のリズムで、無理をせず、休憩を取ることが大事なんですね。無理やムラは禁物なんです。
これは仕事のあり方にも転用できる考え方です。疲れないように仕事をすること。それが70%の自分の時間を豊かに活動的にすることに繋がると思うのです。
考えてみれば僕らはかなり自由だ
会社や役所に勤めていると自分はなんて不自由な存在なのだろうと落ち込むことがありませんか?
ホリエモンこと堀江貴文さんは懲役刑つまり収監された経歴を持っています。
牢屋の中にいる堀江さんは弁護士さんを通じてメルマガを発行していたそうなんですが
シャバの世界にいる人々、つまり当時の堀江さんよりずっと自由な生活を送っている人たちが自分に悩みを打ち明けていることに不思議な思いを抱いたそうです。
そりゃ、そうですよね。僕たちは自由なんですよ。マクドナルドに行きたいなと思えば今日中にいけますし、土日で海外旅行だってできるわけです。
つまり僕たちは知らず知らずのうちに自分で行動範囲や思考範囲を狭めているような気がするんです。
それは会社の上司や同僚の言葉や学校の教師の考え方に影響を受けているとも考えられます。会社に属しているとその職場はある一定の価値観によって運営されているわけで例えば、自分が「こんな形で起業したい」と言っても「そんなに甘くない」「無理に決まっている」とか言われてしまうのがオチです。
自分は小学校教師で子供達が「アイドルになりたい」とか「むちゃくちゃ金持ちになりたい」とか言っても絶対に否定しません。そんな時は「いいな、その夢。どうやって叶える?」と問いかけることにしています。実際に、小学校在籍中に地下アイドルとかやり始めた子もいて、なんか健気だなと感心したりするわけです。
人の考えを否定しない生き方をすることによって自分自身も自由な考え方を持って
楽しく生きられるのではないかと思っています。
不登校になること・会社に行きたくないこと
不登校になる子の気持ちはわからないけど、
会社や仕事に行きたくない人の気持ちはよく分かります。
なんか最近、どこもかしこもコミュニケーション能力が大事だ!みたいな
風潮が強すぎませんか?
確かにコミュニケーション能力は大切です。でも、日本の学校や会社で求められる
それは同調圧力に屈する能力と同質なものと捉えられているような気がするんです。
一言で言えば、空気を読んで、波風を立てないことが大事みたいな感じです。
これは疲れますよ、ほんとに。そういう意味では不登校になる子の気持ちは
よくわかるんです。自分の本音を押し殺して時間を過ごすことはほんと苦痛ですよ。
教師の訳のわからない指示、クラスメイトの共感できない話に
「何それ?」とか「馬鹿馬鹿しい」とか気軽に言えないわけですから。
自分自身、教師なわけで、なんでこんなことしなきゃいけないの?といつも思うわけです。だからたまに「みんな、すごいな。よく毎日学校に来るね。」とか、つい本音を言ってしまうときがあります。子供達はポカーンとしてますけど。
仕事に行きたくないっていうのは、理由があるようでない場合があります。
なんとなくすごく猛烈にいきたくない。
自分を押し殺すのに疲れて、その疲労が蓄積しているのかもしれません。
そんな時は休むことにしています。一週間くらい休むと普通になります。
だから、みんな、もっと休もうよ。
教育のユニクロ化
民間企業勤務経験を13年経て、小学校教諭になってもう10年近くになるんですけど、なんていうか、まあ、正直いうと、大変なんですよ。授業の準備が。
国語、算数、理科、社会、総合、図工、体育、道徳、学活、書写、家庭科、なんかが
あってですね、これを毎日やるわけ。できます?毎日毎日。。。
「優秀な教師を集める」とか県が採用試験で声高に叫んでますけど、無理だよって。
そんな優秀な奴はいないってことがわからないのかなあ。
例えば保険会社なんかでいうとスーパーセールスマンとかいるじゃないですか。
でも、7、8割の普通のセールスマンは2、3年で辞めていくわけです。
ビジネスコーナーにはカリスマセールスマンが書いた本なんかが置いてあって、
それなんかを読むと不思議と自分もできるような気になるんですけど、やっぱりできないわけです。しばらくするといつものダメな自分に戻ってしまう。
これは学校における教師も同じであって、すごい授業ができる先生もいれば、全然ダメな先生もいます。こういう場合、何が大事かっていうと、どんな先生でもある一定の質が保たれた授業をできることなんですよね。
ユニクロに行けばわかることですけど、あそこはカリスマ店員なんんていませんよね。
いや、そりゃ探せばいると思いますけど、少なくともカリスマ販売員によって成立している会社ではないわけです。すぐれた製品とその品質を維持する仕組みによってその存在を保っているわけです。
教育のユニクロ化こそが教育現場における授業の品質を守り、教師にゆとりと子供達とのふれあいの時間を生み出すのではないかと思うのですが、皆さんはどう思いますか?
社会人(民間企業勤務経験など)こそ教師になるべきだ
最近の教師に関するメディアの取り上げ方を見るとつくづく教師は一度、
別の職業に就いてからなるべきではないかと思ってしまう。
自分自身、現職の小学校教諭だが、10年近くこの仕事をやっていると
「ああ、この人たちとは何を話しても分かり合えないな」と痛感することが多い。会社で働いていた時とは全く違う感情が湧き出てくる。
例えば、中学校や高等学校の部活問題。
「土日はもうやめようよ」ということさえできないという。
どう考えても異常だ。無駄なことだとわかっているのに撤退しない。
生徒たちだって土日まで部活なんか本当はやりたくないはずだ。
少なくとも私はそうだった。
「なんかさあ、もう、こんな馬鹿げこと、やめようよ」
こんな普通のことさえ言えない社会にいることが本当に辛い。
教師のうち民間経験者が4人のうち一人ぐらいを占めるようになれば
少しは改善されるような気がするんだけれど。